子どものことを愛しているのに一緒にいると苦痛なワケ

  以前の記事で、育児の大変さを苦痛に感じない人と、私のようにいくら笑顔を向けられても大変さが帳消しにはならないと感じる人がいると書きましたが、私自身「なぜ子どもたちと一緒にいるとこんなに苦痛なんだろう。自分は子どもを愛せないのだろうか」と悩んでいました。
 「あること」に気付くまでは、子どもと一緒にいる時間が苦痛=子どものことを愛していない、と勘違いしていたんですね。さらに、母親なのに子どもを愛せないなんてダメだ、と自分を責めていたこともあります。
 
 それが、あるセミナーで「価値観の洗い出し」のワークをした時に、はっと気づいたのです。「私は子どもを愛していないわけではない」ということに。
 そのセミナーは、子育てとは全く関係のない、女性のリーダーシップについてのセミナーでした。自分の価値観を客観視してみましょう、ということで、自分が「心地よい」と思うことは何か、「不快」に感じることは何かを表にしていきました。
 私が「心地よい」という項目に書き出したのはこんな内容です。「自由・1人・静けさ・整っている・スマート・スピーディー・クレバー・予定通り進む・コントロールできる」。
 一方、「不快」な項目に書き出したのはこんな内容です。「雑多・騒がしい・散らかっている・もたもたする・話が通じない・コントロールできない・不測のことが起きる・外部からの押しつけ・前に進まない」。
 自分でこれらを書き出しながら笑ってしまいました。
 もうお気づきでしょうか?「不快」の項目にある状況を毎日作り出してくれている存在、それが子どもたちだったのです。

 快か不快かというのは、価値観、もっと言えば「好み」の問題です。なぜそれが不快なのかと言われても、嫌いなものは嫌いだからどうしようもないのです。それを好きになろうと無理をする必要はありません。
 私が子どもたちと一緒に過ごして「不快」だと感じていたのは、子どもたちという存在そのものに対してではなく、子どもたちが産みだしている状況に対してだったんですね。だから、子どもたちという存在は愛しているのにも関わらず、一緒にいると苦しくなっていたのです。

 そのことに気付いて、「ああ、自分の中にもちゃんと愛情はある」と実感したら、同じ苦痛な状況になっても自分を責めなくてよくなりました。と同時に、起きている事象と子どもたちという存在を分けてとらえることができるようになったので、一時的に何か不快なことが展開されても、子どもたちの存在そのものに嫌気がさすということがなくなりました。
 さらに、そのセミナーで講師の方が「この状況でちゃんと子育てしているって、すごいことですよね」と言ってくださいました。それまで、「子育てに向ていない自分が子どもを育てていること」に対して何となく後ろめたさがあったのですが、その一言で全く逆だと感じるようになったのです。「子育てに向いていないのに子どもを育ててるなんてすごい!」と。

 子育てを苦痛だと感じた時は、何が苦痛なのかを細かく洗い出してみるといいかもしれません。自分が不快に思っていることは「子どもという存在」そのものではない、ということにきっと気づけると思います。